隠された無意識のパターンを意識の光のもとに

プレゼンスに在ることを心掛けながら日々を過ごしているうちに、レナードさんの教えの、目覚めのツーステップの第二の鍵「自分自身が誰となったのか」の隠れた側面が次々と浮かび上がってきました。

その中のひとつに、「他者を操るパターン」がありました。
私の、他者を操るパターンは、二つありました。

ひとつめの、そして一番多く現れるパターンは、「被害者になること」です。
このパターンに入り込むと、私は相手に罪悪感を抱かせるような言葉や態度を、無意識に取り始めます。すると、私に対して罪悪感を抱いた相手は、その罪悪感を解消しようと、私が密かに「こうしてほしい」と思っている言動を取ることになります。
これらのやりとりは二人ともほとんど無意識に行っているために、相手が取った言動はあたかもその人自身の意思で自発的に行われたように、見えます。

ふたつめのパターンは、「第三者になること」です。
無関心を装ってよそよそしく振る舞うことで、近づいてきてほしくない相手を近づけないようにする。あるいは逆に、急に第三者のように一歩引いた態度を取ることによって、「いったいどうしたのだろう」と相手に思わせ、相手からの関心を得る。
これも、無意識に行ってきたために私自身に「他者を操っている」という自覚はなく、その人との関係性の中で自然に起こるできごとのように、見えていました。

これらのパターンは、おそらくずっと以前からはっきりと私の傾向としてあったはずなのですが、私自身が「認めたくない」と無意識に抵抗していたために、自分でそれを意識することができませんでした。無意識にこの方法を繰り返すことによって私のエゴは、「これは私が有利に生き残るために有効だ」という確信を深め、エゴ自身の存在価値をますます強固にしてきたのでしょう。

認めることを拒み続けてきたこの側面への気づきは、レナードさんの言葉を指針としてプレゼンスに根ざすことだけをただひたすら求める日々を送るうち、突然やってきました。

その日、ベッドで目を覚ますと、「私は他者を操るために被害者と第三者に成りすます」という認識が突然はっきりと浮かび上がってきました。それが疑う余地のない事実だということは、瞬時に分かりました。

天井を見つめたまま、それまで行ってきたことへの羞恥と後悔に、私はしばらくの間、呆然としました。その数分間が過ぎ去ると、今度はまったく唐突に、ひろびろとした清々しい気分に包まれ、私は笑い出しました。「認めたくない」と抵抗していた無意識から放たれたことで、まるで自分自身が広がったような感じでした。私の笑い声で目を覚ました幼い娘は、「ママ、どうしたの?たのしそうだね。」と言い、一緒に笑ってくれました。

この日から、日常生活でこのコントロールのパターンが現れる瞬間(それは実に頻繁に現れました)、そのことに気づくことができるようになりました。そして、私が他者をコントロールしたくなるのは、私が何かを恐れたり怯えたりしたときだということもわかり、レナードさんが「恐れは支配、愛は許容だ」とおっしゃっていたことを、実感しました。

被害者のように、あるいは第三者のように振る舞おうとする自分が現れたときには、プレゼンスに在れるよう周りの音や景色に意識をあてながら、「なぜ、この人の自由を奪って私の思い通りにコントロールする必要があるのだろう?私はなにを恐れているのだろう?」と自問してみます。すると、私の(エゴの)ごまかしがはっきりと見え、相手をコントロールしなくてはならないという気持ちは、自然と消え去っていきます。

数日前、私の「被害者」のパターンが働き始める典型的な場面がありました。

娘と一日たっぷり遊んだ日の夕方、夕飯の下ごしらえを急いで済ませた私は、10分ほどゆったり座って紅茶を飲みたいと思いました。ところが、私が紅茶を持ってソファに座ろうとすると、家事を終えるのを待っていた娘が「ママ、プリキュアごっこしよう!」と言って私の手をひっぱりました。

私は、自分がとたんにイライラするのを感じました。そして、「ママは今日一日ずっと一緒に遊んであげたでしょう?いまやっとごはんの準備も済ませてちょっとゆっくりしようとしたばかりなのに、また遊ばなくちゃいけないの?あなたがいるときは、ママは自分の好きなこと、全然できないの?」と、言いそうになりました。

そのとき、私ははっと、自分が被害者になろうとしていることに気づき、「私はなぜ、娘に罪悪感を抱かせてまで彼女をコントロールしなくてはならないの?私はなにを恐れているのだろう?」と自問してみました。
浮かび上がってきた答えは、「娘に私の自由な時間が奪われてしまうのが怖い」という焦りにも似た恐れでした。

私は口をついて出そうになったさっきの言葉を飲み込み、プレゼンスに導いてもらえるよう目の前のポトスを見つめながら、その感情を数秒間じっと感じました。
すると、自分のマインドでなにが行われているのかが見えました。
「この子はただ自分の希望を私に伝えているだけで、私の自由な時間を奪おうとしているわけではまったくない。だから、イライラした感情が沸き起こったのは娘に責任があるからではなく、ただ単に『疲れたから、リラックスして一息つきたい』というサインなのだ。いま私がすべきことは娘に罪悪感を抱かせるような言葉を言って責任転嫁することではなく、この感情を私自身が責任を持って彼女に表現することなのだ」ということが、はっきりとわかりました。

私は娘に、「今日はたくさん遊んで、ママちょっとくたびれちゃったから、座って紅茶を飲みたいな。」と言いました。娘はちょっとびっくりした顔をしたあと、「ママだいじょうぶ?じゃあ私もママと一緒にミルク飲もうっと。」と言い、そのあと二人でそれぞれの飲み物を飲みながら、「今日はこんなことも、あんなこともしたね」と言い合い笑い合いました。

イライラした気持ちも「自由な時間がない」という焦りも、跡形もなく消えていました。無意識のパターンを放棄し、感情のサインにただシンプルに応答することが、どれほど物事をスムーズに展開させるのかということに、私は改めて胸を打たれました。そして、いままで自分が(エゴが)、どれほど物事をややこしく困難にしていたのかが、身に染みました。

もし、無意識のパターンにからめとられて被害者として行動していたとしたら、私はひとりで紅茶を飲むことはできたでしょうけれど、娘も私も悲しい気持ちで過ごすことになったことでしょう。そしてなによりも、娘の無意識に「あなたは迷惑な存在だ」という間違ったメッセージを送ることになってしまっただろうと思います。

これは「私が誰となったのか」の、私自身が認めることを拒み続けてきた側面のひとつです。レナードさんの教えとプレゼンスの力のもとに、私はこのことを明確に意識することができるようになりました。

この側面は私の内からなくなってはいませんが、これを嫌悪する気持ちは、不思議なほどありません。「このパターンがただ私の中にある、でも私はこれから先、もう二度とだれのこともコントロールしたくない」と、強くはっきりと感じるだけです。
コントロールのパターンは、無意識の領域から意識のもとに運び込まれたことによって、私の行動を支配する力を失いました。
この先、これらのパターンを使って私のエゴが他者を操ろうとしたときには、それに気づいて止めることができるだろうと感じられるのは、素晴らしいことでした。

レナードさんが指し示す真実とプレゼンスによって、自分を縛ってきた無意識から私はどんどん自由になります。真実は人を自由にするのだと、実感しています。

たくさんの感謝をこめて。(30代 女性)