推薦コメント 柏倉明裕 氏

大原三千院御門主でいらっしゃる堀澤祖門先生の「止観の会」で、2014年からテキストとして『「今、この瞬間」への旅』が使われています。
先生の解説で読み進め、やっと昨年末に最後まで読み終え、2018年から、最初に戻って、二回目の読み進めに入りました。

僕は、特に、レナードさんの「失くしたスーツケース」の話が好きです。
それは、「スーツケースを失くした夢を見、捜している途中で、外の大きな音で目が覚め、自分はスーツケースを失くしていないことに気付くのですが、また、眠りに入ってスーツケースを捜し始める」というものです。
何ということもないたとえ話ですが、実は、このたとえが全てを物語っています。この話は、私たち、全員が、夢の中でスーツケースを捜していることをたとえています。

目覚めたレナードさんから見れば、私たち、全ての人が、思い込みや想像、自分の考えという夢の中にいます。しかし、誰も、自分が夢の中にいるとは思っていません。なぜなら、叩かれれば痛いし、お腹はすくし、これは現実であると思っています。それは、「現実的な夢」だと思います。夢は分離です。

でも、誰もが、自分は分離しているという実感がありません。
分離とは、制限、執われ、堀澤先生の言葉で言えば「枠」です。私たちは、先ばかり見て、実は制限されていること、執われていること、枠の中にいることに気が付かずに、夢の中で「失くしたスーツケース」を捜しています。私たちは、心の中で、「大事なスーツケースを失くしてしまった」「自分は十分ではない」と不足を感じて、何かを求めています。
でも、実際、スーツケースを失くしたわけではありません。「今、この瞬間」にスーツケースは有ったのです。不足感、不満足感は、ワンネスからの分離です。

私たちは、常に不足を感じ、何か満たされるものを求め、立派になりたい、認められたいなどの気持ちがある限り、夢の中にいて、ワンネスから分離していることに気が付きません。
むしろ、「夢を追い続け、努力すれば、夢が叶う」と刷り込まれています。「夢を見ることは素晴らしい。夢は生きる希望」と思っています。
しかし、夢が叶ったとしても、それは究極ではありません。「さらに」「もっと」と果てしない不満足が続き、たとえ叶っても自分の思いの枠内での限定的な満足です。

「今、この瞬間」は、何かを求めている人、立派になろうとしている人にとって、何の役にも立ちません。それどころか、全く意味がないように感じ、「それがどうした。当たり前ではないか。今、こうして現実に生きている、ただそれだけではないか。それより、もっと努力して、上を目指し、頑張ればご褒美がもらえる。」と言うでしょう。でも、それは、「夢の中での今」なのです。

本当の「今」は、理解ではありません。「今」は、何の役にも立たず、たいした意味があるように思えませんが、私たちは、役に立たない「今」から離れないで、ただ、お花と一つになる必要があります。お花は、さりげなくワンネスを示しています。自分の考えという枠を離れるには、考えないで、理解することなく、お花と一つになっている世界にしばらくまかせなければなりません。心が、お花のさりげなさに動かされ、楽しい、嬉しい、たとえ訳が分からなくなっても「それでも生きたい」という気持ちにまかせます。

僕の場合は、そうでした。心がひ弱で、気むずかしく、ひがみっぱなし、いじけっぱなしで、何もできなくても、それは関係ありません。

レナードさんが目覚めている世界は、努力の有無に全く関係がなく、生まれや育った経過がどうであるかとか、家庭がむちゃくちゃでも、頭で思い描いていたことがうまくいかず、破綻し、死んでしまいたいと思っても、大丈夫な世界が、ワンネスとして広がって、全てを受けとめていたのでした。
破綻したのは、自分の思いであって、ワンネスの世界は何も変わらずに既にあったのです。それは自分が死んでも変わらないし、仏がいても、いなくても、変わらずに、永遠なのです。

元々あった永遠さは、求めることではなく、夢から覚めなければ気が付きません。私たちにとって、夢は、「自分は夢を見ていた」という自覚なしに、夢から覚めることがありません。
レナードさんは、私たちが夢から覚めるように、「これが夢である。夢とはなんであるか」を、懇切丁寧に示してくれます。それは、マインドとはどういうものか、エゴについて紐解くことです。

結局、求めること、理解しようとすることなどの、脳を使うことの全ては、夢だと思うのです。脳をはたらかせることは夢であったと知ることが、目覚めです。それは、思いの枠や限定されたことから解放され、いつも風のように自由で、太陽のように分け隔てなく暖かなものです。

レナードさんのいるワンネスの世界こそ、完全な目覚めです。
レナードさんは、よく「ワンネスは理解でない」と言います。
レナードさんは、私たちの目を見、ちょっとした動きで、「あなたは、今、考えようとしましたね」とか、「あなたは、また、理解しようとしましたね」と瞬時に見抜きます。

理解しようとすること、解釈すること、求めること、それらは、全て、「今」ではなく、「夢の中でスーツケースを捜している」ことであり、ワンネスからの分離やマインドの枠の中です。

レナードさんは、何が夢であり、どうすれば夢から覚めることができるのか、夢から覚めた境地はどういうものか、夢から覚めてみれば死や病をどう感じるかをはっきりと示します。
そして、夢から覚めるために、必要なことを、四つ挙げます。

また、レナードさんは、何が偽りの力(パワー)で、何が真実の力であるかを、明確に示してくれます。
暴力、権力、名声、知識の豊富さは、偽りの力であり、不幸な目に遭っても、いじめられても、たとえ何もできなくても、弱い者が立ち上がることのできるワンネスの世界こそ、真の力であるといえます。
ワンネスこそ、死や病気や老いや、辛いこと、苦しいこと、災難を超えて、限定されることのない、何物にも妨げられない、消えてなくなることのない広大な永遠性です。

そしてワンネスこそ、釈尊をはじめ、目覚めた人々のいる境地です。それは、「ヤハウェー」「道」と表現は異なっていても、全て同じです。そのことを「仏仏同道」と言います。それは言葉を超えているため、常に沈黙であり、静寂であります。
それを言葉で理解しようとし、解釈しているのが、今の宗教界です。解釈すればするほど、夢であり、「今」から離れ、訳が分からないものになります。

だからこそ、仏教関係の者も含めて、全ての人が、直接、ワンネスに目覚める必要があります。
僕は、僧侶でありますが、僧侶と在家と、分けるのも分離です。
僧とは、元々、僧伽(サンガ)に由来し、レナードさん流に言えば、ワンネスに生きる人々の集団が僧伽(サンガ)で、ワンネスに目覚めた人を仏陀、ワンネスそのものを法(ダルマ)で、この仏法僧を三宝と言います。ワンネスに生きる人、全て、同じように僧なのです。

ワンネスの境地は、常に仏教の中でも重要とされて来ました。
「南無阿弥陀仏」という「阿弥陀」はインドの言葉を音写したもので、「無量寿」「無量光」という意味です。つまり、時間的に制限されない、空間的に制限されないことに「南無します」「帰依します」という意味が、「南無阿弥陀仏」です。この時間のない広がりの世界がワンネスです。これも、現代では、解釈に解釈を重ねて、ここにこう書かれているとか、誰がこうおっしゃったということを紹介し、それを知ったことで分かった気になり、誰も、「解釈は真実ではない」「解釈は夢の世界」「言葉の枠に執われている」とは思ってはいません。今こそ、私たちは解釈することを、一旦、手放す必要があります。

僕は、今の仏教界を批判しているのではありません。
レナードさんは、「誰かを批判してはいけません。それは、ワンネスは受容であり、慈悲であり、愛であるからです」とおっしゃられました。「彼らは、本当のことが分からないから、本当でないものを真実としているのです。あなたは、彼らに、本当のことは何であるかを、批判することなく、ただ示せば良いのです」と言われました。

レナードさんは、毎回、必ず、僧職者に向かって、何らかのメッセージを下さいます。「私たちは、ただワンネスであれば良い」と。「同情する必要もなく、自分が救わねばならないと思う必要もない」と。ただワンネスでありさえすれば、後はワンネスの輪が自然に広がって行くのだそうです。

みんな、何が本当か分からずに、さまよっています。真実が分からないから、真実でないものを真実だと思い込んで、戒律を守り、滝に打たれ、断食し、学問をし、言葉を解釈し、その一方で、後継ぎ問題や駐車場経営で頭がいっぱいになったかと思うと、ケロッとしてお酒を飲んだり、偉そうにふんぞり返っている。そのような人がいまの仏教界にたくさんいます。

私たち僧侶は、今こそ、仏教界の現状に危機感を持ち、それぞれの宗派の教義を超え、言葉を超えて、言葉ではないワンネスに目覚めるべきです。

今、世界の中で、ワンネスの中にいて、それへ至る方法を筋道立てて示してくれる人はいません。だから、我々は、レナードさんのいるこの時代に、直接、レナードさんに会って、体でワンネスを体験すべきなのです。
それがプレゼンスです。プレゼンスを理解しようとしてはいけません。理解しないためにリトリートがあり、リトリートで体験したことを著書で確認し、確認したことを、また、リトリートで深め、生活で定着させる必要があります。

実は、釈尊も、『法華經』も、『大無量寿経』も、親鸞も、ワンネスのことを、涅槃」(静かな観念のない世界)、「大乗」(大きい乗り物)、「一乗」(一つなる世界)、「法性」(法として変わらないもの)、「実相」(本当のあり方)、「浄土」(清らかな世界)と、表現しています。

「縁起」とはワンネスの世界で物事がただ淡々と起きていることであり、「阿頼耶識」とはワンネスに目覚めた世界のこと、「無字」も、「念仏」も、プレゼンス同様、言葉を超えたワンネスの道であり、ワンネスは四十八願、二十九種荘厳のいろんな側面のはたらきが調和された世界です。

「自力」とはマインドのことで、全てはマインドの理解であったと気が付くことがマインドから離れる「自力無効」であります。

「他力」とは、我々の思いを超えて、他の力として感じたワンネスの力です。それらのことは立派な人には分からず、目立たない、一見、たいしたことのない人のような「凡夫」にこそ、開かれているもので、大学者には分からないのがワンネスです。

天台宗で説く「一念三千」も、今、この瞬間の一念は完璧で永遠であるという意味です。ここで、ワンネスについて語り過ぎると、禅僧から、言葉で「汚すな」と叱られそうです。ワンネスを体験して、初めて本当の意味での修行となります。これを「得道の中に修行す」「道を見る者、道を修す」と言います。それは、「火の中で火を求める」「川の前で水を売る」「風が吹いているのにうちわで扇ぐ」修行で、真の修行は力を得たり、少しでも立派になるためにするのではありません。
これら仏教で学ぶ基本的な事柄の多くは、真実を理解するための本来の意味からかけ離れています。
だからこそ、理解ではないプレゼンスによる「今、この瞬間」から、身をもって体験することが重要です。

現代の宗教界は、頭で理解することが先行し、教えの本当の意味が分からなくなっています。修行の意味、戒律の意味、仏、法、僧の意味が分からなくっています。
今こそ、理解ではない捉え方が重要です。
レナードさんの目覚めている世界こそ重要です。
レナードさんの存在こそ貴重であります。

〈プロフィール〉
1961年生まれ。山形県出身。真宗大谷派、明源寺副住職。
1984年、大谷大学卒業。現在、京都に在住。
2002年より堀澤祖門先生(現、三千院御門主)の指導を受ける。
堀澤先生は三千院においてレナードさんの講演会を開催し、リトリートにも参加。

2017春 清里リトリートにて