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不安が溶け、ストーリーが解き放たれていくとき

夕方の、空気の色が変わる時間帯が、私は子どもの頃からずっと苦手でした。黄昏時、マジックアワー。素敵な名で呼ばれ、世界を美しく見せるこの光の時間が訪れると、私はいつもわけもなく不安に包まれました。それでも、この短い時間が過ぎて夜が始まってしまえば不安は立ち去り、またなにごともなく平穏な気分が戻るので、この不安については問題だと感じたことがありませんでした。多かれ少なかれみんなそうなのだろう、夕方というのはきっとそういうものなのだ、と。

でもこの秋、娘がひどい風邪をひき、夜になると発作のような咳で苦しむ日々が続くにつれ、夕暮れ時の私の不安は手に負えないものになっていきました。小さな子どもは咳とともに嘔吐してしまうことも多く、これが長く続くと脱水の心配もあり、夜の始まりにはいつも、「今日は咳がひどくなりませんように」と切実に願います。でも次第に、私の不安の大きさは、娘への心配だけでは説明がつかないほど大きく膨れ上がっていきました。

夕暮れ時。太陽は姿を消したけれど、空はまだやさしい明るさに包まれ、小さな雲を柔らかく光らせている。よく陽の入る部屋は燃えるようなオレンジ色に染まり、幼い娘とおしゃべりをしていた私は、夕食を作るためにキッチンに立つ。一人になった娘は、窓際で歌を歌いながらお絵かきを始める。

メニューと手順を思い浮かべながら手を洗い、娘の歌声に合わせてハミングしていた私は、ふいに強烈な不安に包まれ身動きができなくなる。反射的に不安を掻き消そうとした瞬間、「この不安はいまここに存在する権利がある。不安は解き放たれるのを待っている」というかすかな声が体に響く。私は我に返り、その不安と向き合うことを決める。

背筋が凍りつくようなその不安を、私はただひたすら感じる。いつもなら、そうしているうちに過ぎ去っていくはずの不安は、この日はなかなか立ち去らない。長い時間がすぎ、不安はますます大きく膨れ、頭がくらくらし始める。息が苦しくなり、視野が狭まる。立っていられない、と思い、私は目を閉じる。

ふいに、「あなたはいま、どこにいる?」という声が聞こえたような気がして、息苦しさの中、私は必死で目を開け、あたりを見回す。「私の、キッチン。」と私は思う。
すると再び声が聞こえる。「いやちがう。あなたはいま、どこか別の場所、別の時間にいる。あなたはいま、どこにいる?」

ここはどこだろう?私はどこにいるのだろう?混乱したまま、私は再び目を閉じ不安の中心に入っていく。ぼんやりと、どこかの景色が見え始める。

燃えるようなオレンジ色の夕方。黒い鉄格子の門のそばに、母と共にしゃがみこんでいる幼い私自身が見える。会社か工場の、その門のそばには中年の守衛がいて、もう閉門の時間だから出て行ってくれと、困ったように母に話しかけている。母はしゃがみ込んだまま泣きじゃくり、「あのひとを呼んでください。来ないならこの子と一緒に死ぬと伝えて。」と言っている。そばにしゃがんだ私は状況が理解できず、泣き続ける母と困惑し続ける守衛を、ただ見つめている。

そうだ、ここは、私たちが母子家庭だった頃、当時の母の恋人が勤務していた会社だ。母はたぶんまだ30代で、恋人との関係が終わりに近づき、話をするために彼の会社を訪れたのだ。いつも私に優しくしてくれたその男性には、でも、妻子がいた。母は私に、彼のことを「お父さん」と呼ばせていたけれど、その後、母は彼と別れ、別の男性と結婚した。のちに父となる男性と結婚する前に母に別の恋人がいたことを、どうして私はいままですっかり忘れていたんだろう?あんなに優しくしてくれたのに。「お父さん」とまで呼んだのに。

当時の私が理解できなかったことを含めて、私はすべてを思い出す。母の気持ちも男性の事情も、いまの私には理解できる。この景色の状況も、激情型の母の「子どもと一緒に死ぬ」という言葉が本気ではないということも。でも4~5歳の私には、母の言葉は本気であるように聞こえた。私は怖かった。とても、とても怖かった。でも私は泣かなかったし、周りからは怖がっているようには見えなかっただろう。たぶん、その感情を受け止めるには、当時はまだ、幼すぎたのだろう。

私はその景色を俯瞰する。オレンジ色に包まれた不安。
だいじょうぶだよ、なにもかもだいじょうぶ、と私は小さな私に話しかけてみる。
これはみんな、過ぎ去ったこと。母はもう忘れただろう。私ももう、忘れよう。あのときのことは、誰のせいでもない。いろいろな状況のなかで、それはただ、起きたのだ。感じ切ることのできなかった不安も、いまやしっかり受け止められた。ストーリーは解き放たれるときだ。そうして、オレンジ色の景色は、不安と共に渦を巻くようにゆっくりと溶けていく。

手にあたる柔らかいお湯の感触に気がつき、深い安らぎの中で私は目を開ける。そうだ、私は手を洗っていたんだ。
娘の歌声が聴こえる。オレンジ色の光の中で、娘はまだ、たのしそうに絵を描いている。
ずいぶんと時間が経ったように思うのに、時計の針は少ししか進んでいないことに、私は驚く。部屋を満たす夕暮れの光の美しさに、私はこの上なく幸せで自由な気分になる。夕方の光が私を不安にすることはもうないだろうことを直観し、私は感謝で溢れる。

レナードさんの教えに出会い、プレゼンスを深め真実を生きたいという願いが他のどんなものよりも私の生活の中心になって以来、私の内面でさまざまなことが起こるようになりました。
こうして幼いころの恐怖をひとつ解放したこともまた、プレゼンスを深めるためのプロセスのひとつだったのだと、思っています。プロセスをひとつ経るごとに、レナードさんの教えとプレゼンスへの信頼は、ますます強くなっていきます。
「いまここに私は在る」という真実は、なんて力強くてやさしくて、自由で軽やかで奇跡にみちたものなのだろうと、いつもいつも、驚嘆します。

すべてのことに、感謝をこめて。(30代 女性)

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