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いまこの瞬間に在るもの

信仰を持たない私にとって、「神」や「神聖な」といった言葉は、馴染みのないものでした。ピンとこない、体になじまない、血肉に染み渡らない、という感じが、どうしてもしてしまいました。

でも、レナードさんの教えに出会い、日常生活でプレゼンスを体験するにつれて、「神」としか私の語彙では表現しようのないものを、感じるようになりました。

たとえば、食事のとき。
夫は仕事、娘は幼稚園に行っているので、私は一人でお昼ごはんを食べている。昨夜の残りの肉じゃがと、白米と、お漬物。
「そうだ、せっかく一人で食べているんだから、プレゼンスに在る状態で食べてみよう」とふと思いつき、私は目の前の肉じゃがを見つめる。箸でじゃがいもをつまんで口に運び、口に含んで箸を置いてから、咀嚼する。舌に感じる熱さ。じゃがいもの香り。口の中でほどけるねっとりとした感触。甘辛い味。ゆっくりと飲み込む。じゃがいもは喉をすべり、私の体に収まる。その美味しさに、私はすっかり満たされる。これは、昨日私が作って食べたものと、同じものだろうか。にんじんも、しらたきも、お肉も、同じようにひとつずつ、味わってゆく。見つめて、箸で運び、口に含み、箸を置き、咀嚼し、飲み込む。

そうしているうちに、私は急に理解する。「神」はこのじゃがいもだ。「神」はじゃがいもをのせたこのお皿で、じゃがいもを運ぶこのお箸で、じゃがいもを咀嚼するこの私だ。どのような言葉で表現しようと関係なく、信じるも信じないもない。だって、「神」はここにいる「わたし」のことなのだ。「わたし」であり「あなた」であり、「食べるもの」であり「食べられるもの」であり、いま部屋を吹き抜けているこの風、いま部屋を満たしているこの空気なのだ。「神」で満たされたこの世界では、これまでもこれからも、失われるものはなにひとつない。それは圧倒的な事実として私を包み、幸せのあまり、私は静かに泣く。

たとえば歩くとき、野菜を刻むとき、掃除するとき、プレゼンスに在るなら、いつでもこの事実を感じることができるということを、私は実感しました。それはレナードさんの言うまさにその通りでした。道を歩く「わたし」と踏みしめられる「道」はおなじもの、野菜を刻む「わたし」と刻まれる「野菜」は同じもの、床を拭く「わたし」と拭かれる「床」はおなじもの。それはどれもみんな「神が息づくもの」でした。

「神」としか言い表わせず、でもその言葉に馴染めないのなら、名付けて呼ぶ必要もないのだと、いまは知っています。それは「思い出す」ことのできない、言葉を超えた、今この瞬間ここにあるなにもかもなのですから。

「過去生」や「輪廻転生」も、私には馴染みのない言葉で、それを実感したこともありません。でも、「神」と同様、それは単に今の私には体験されないものだということであり、信じるも信じないもなく、実感されるべきときがくるのなら実感されるのだと、思っています。

レナードさんの教えのツーステップに取り組む中で苦しいこともありますが、プレゼンスへの信頼が、私の中に揺るぎない喜びを生みました。
過去も未来もなく「今この瞬間」が人生のすべてで、その「今この瞬間」は至福そのものなのだと体感することができた今、私はとても、とても幸せです。

レナードさんの教えに感謝をこめて。 (30代 女性)

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